空白の中を僕は走る

最近は9時には帰宅しているので、実家できちんと食事を取り2時間ほどしてから外に走りに出ている。平日は30分ほど走るのだが、絶対に息があがらないペース(時速8km強)で淡々と走っているととても気持ちよい。好きな音楽かけながら15分くらい経つと、走るリズムと音楽と体の感覚が全部一体化するような感じになってきて、かなりの快感。先日紹介した村上春樹の本で彼はこう言っている。

僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的に空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。

この感覚はよくわかる。走り始めは色んなことを考える。一日嫌なことがあればそのことが頭を離れない、楽しかったことがあればそのことでにやにやしている。でも、走り出していくばくかの時間が経つと、そういった考えはいつの間にか頭を離れていく。勿論頭の片隅には残っているし、次から次と新しい思考が浮かんではくる。でも走ることそれ自体に包まれているような不思議な感覚の中に僕はいる。走るという行為がそこにあり、僕という存在はそこにまるごと含まれている。果たして僕という主体が走っているのか、走るという身体的活動があるからこそ僕という主体が立ち上がっているのか。よく考えると果たしてどっちが正しいのだろう。なんだか哲学的だが、本当に気持ちよく走っているときの感覚はそんななんともいえないものなのだ。野口みずき高橋尚子に見えている世界はきっと僕らにはとても想像のつかないものなんだろうと思う。シドニー高橋尚子がゴールしたときの、ああ楽しいことがもう終わっちゃった、という顔を見て僕は驚愕したものだが、最近こうして毎日走っていると、彼女が気持ちよく走れている時、きっと彼女は世界の全てに祝福されているような(もしくは彼女が世界の全てを祝福している)全的な感覚を持っているのではないかと想像したりするのだった。

ところで最近は本もぼちぼち読んでます。今読んでるのはこれ。
コーカサス国際関係の十字路 (集英社新書 452A)
ソ連グルジア侵攻などもあり、その背景など知りたくて購入。新書ならではのコンパクトな説明が見事。多くのエスニックグループと宗教、言語が混在して、バルカン半島がそうであったように紛争が絶えない地域。そしてロシアという大国の政治的、経済的思惑。その辺が絡み合ったこの地域の事情を簡潔に紹介している。うーんお見事。久々にこういう新書を読めて嬉しい。昔の新書はこういう優れた学者がコンパクトに学問的な事象を説明してくれて勉強になるのが多かったのに。最近の商業主義には辟易ですよ。面白かった論点などは明日以降に。今日はもう寝ますです。