サラリーマンよ読書せよ

作家の読書遍歴を探る好企画「作家の読書道」。町田康こんなことを言っている。

―― 読書が日常のこととなっていたようですが、衝撃を受けたり、目から鱗、というような体験はありましたか?

町田 : それは、読書がどういうことか、ということだと思うんです。10代前半から30代まで、結構本を読んでいましたが、それは引きこもりみたいなものだったんですよね。他に何もできなくて、世の中に出ていけないから本を読む。悪い言葉で言うと“現実逃避”です。本を読むことは、今この世の中、この現実から一旦降りる、脱落するということ。もうひとつ別の次元に行く体験だと思うんです。昨今、本を読んでいないのは40〜50代の人だという記事を読んだんですが、考えてみれば当たり前で、その世代の人たちは忙しくて脱落している時間がない。人間は二つの時間を同時に体験できないから、今の時間から降りて他の時間に行ったら、いろんな人がいろんな思惑で動いていることを自分だけ知らないことになる。要するに出世競争に敗れてしまう。
 でも、読書は単なる逃避でもない。小説はどうやって書かれているかというと、現実を参照にして書かれてある。そこに何らかの現実につながる回路があるんですよね。だから全然現実とは別のものということでもなくて、もうひとつの現実なんです。もうひとつの現実を体験するということは、二つの時間を持つということ。ひとつの時間にしか生きていない人より二つの時間に生きている人のほうが、いろんなことを分かっていたりする。そして、小説が文字を使って書かれている以上、読んで別の時間に逃避しても、文字の力によってどうしてももう一回現実の時間に押し流されてしまうところがある。自分が変わるということは、そういうことなんだと思うんです。
 だから、あなたの言うように、本を読んで目から鱗、ということはないですね。例えば、大きさがほぼ同じ茶碗を流しで洗っていたら、たまたまガチッと組み合わさってしまってどうしてもとれなくなったとします。それが、本を読んだら「こうすればとれますよ」と書いてあった時に、うわっ、って目から鱗が落ちる。でもそれは生活の知恵ですよね。読書というのは、もっと深い体験だと思います。瞬発的な知識ではなく、じわじわと嫌な形で体にまわって、二日酔いのようになった状態でもう一度、現実に帰っていかなければならない。それが読書だと思います。
作家の読書道52回 町田康

僕も社会人になってから、小説やら哲学やらを読む量が明らかに減った。勿論活字好きなので、ビジネスに関連した本は読んでいたけれど。ここで町田康が言っているように、小説や哲学、つまりある「物語」を読むということは別の世界を想像する、もっと言えば(町田が言っているように)現実から脱落していく経験だと言えると思う。「物語」世界に浸ることは、(極論だけど)どこか死に繋がっている。村上春樹風に言えば「冥界に降りて行く」体験。僕はどうしても弱い人間なので、現実世界とこうした物語世界をうまく繋いでいくことが出来ないのだと思う。その両立が図れたらこれは素晴らしいことだなあ、とやや酩酊しつつ、久し振りに自分語りしてみました。