少年期の憧憬

今日は朝帰りだったので、昼食後急に睡魔が襲ってきて3時ごろまで寝た。起床後しばらくしてランニング。昨日90分走ったので今日は30分もしくは60分の予定だったが、走り出すと調子が良かったので、結局90分間走りきった。しかも昨日よりペースが速く、トータルで13.5km。自己最高。平均時速は8.9kmだから、このペースで次は120分走に挑戦予定。着々と成長できていてなんか嬉しい。

ところで、自宅の書棚には大学時代に読んでいた本が並んでいるし、音楽雑誌やCDもある。とかく過去のことを思い出す機会は多い。筑摩文庫の「ニーチェ全集」とか見ると色々と蘇ってくるものがあったりする、とか。今日はなんとなく「ノルウェイの森」を手に取った。何回読んだんだろう、この本。数箇所ページの端が折られていたり、線が引かれていたりする。

そっと赤線が引かれていた部分を読んで、何だか心が乱されるような、懐かしいようなそんな感じがした。

そんな圧倒的な夕暮の中で、僕は急にハツミさんのことを思いだした。そしてそのとき彼女がもたらした心の震えがいったい何であったかを理解した。それは充たされることのなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであったのだ。僕はそのような焼きつかんばかりの無垢な憧れをずっと昔、どこかに置き忘れてきてしまって、そんなものがかつて自分の中に存在したことすら長いあいだ思い出さずにいたのだ。ハツミさんが揺り動かしたのは僕の中に長いあいだ眠っていた<僕自身の一部>であったのだ。そしてそれに気づいたとき、僕は殆ど泣き出してしまいそうな哀しみを覚えた。彼女は本当に本当に特別な女性だったのだ。誰かがなんとしてでも彼女を救うべきだったのだ。 「ノルウェイの森 下」p116

上で太線にした部分に僕は赤線を引いていた。

コミュニケーションを希求すればするほど、それはかなわない。「僕」がそれを望めば望むほど、それは自分の思うような形から離れていく。

村上春樹が一貫してモチーフとしてきたコミュニケーション不全の問題はここにも見事に表れている。「僕」が望むピュアで美しい存在、もしくはそういった他者との関係性。ここで言われている「充たされない少年期の憧憬」は、人が望みながら決して得られないそういった純粋な存在や関係性のことなんだと思う。

大学時代の僕は確かにそういった純粋性というものが、どこかにあるはずだと感じていた。だから、上に引用した部分で、そういったものが守られず、それどころか脆くも失われたことに深い哀しみを感じたような記憶がある。

今の僕は、そういう記憶を甘美なものとして愛ではしない。そういう意味では、きちんとある種の成熟を果たしてきてはいるのだろう。ただ、あの頃果てしなく続くと思われた僕の読書の端々で感じた思いは、今でも僕の心の奥に(村上風に言えば)澱(おり)のように残っているし、そういった思いとやらを僕はいつまでも抱えていくだろうと思う。太古の時代を生きた生物達が、化石として時代を超えて痕跡を残し、その積み重ねが現在の世界を構成しているように、僕が抱え込んでいた思いの幾つかはやはり「化石」として僕の中で存在し続け、それは間違いなく「現在」の僕を構成する大切な要素となっているのだろうから。