音楽の哀しみ

仕事では色々あるにせよ実家暮らしのおかげかなんとなく安定した日々ではある。急に忙しいプロジェクトに叩き込まれて毎晩遅いわ週末も仕事だはで嫌気がさすのだが。

通勤の東西線ではipod nanoで音楽に耳を傾ける。最近は気づくとPerfumeを聞いてるわけだが、彼女達について書き始めると今晩寝れなくなるので、今朝想ったことをメモしておこう。

このブログでは何度か書いているが、僕の高校時代は洋楽ロックと共にあった。ソニックユースニルヴァーナダイナソーJr.。彼らの乾いた音がどこかささぐれたった思いを抱えていた思春期の僕にはまった。歌詞はどうでもよかった。そこに鳴るノイズが全てを語っていたように思う。

そして大学時代。「意味から強度へ」の真逆を行くように、僕は書物の世界、意味の世界に耽溺していった。それに伴い、僕は日本語を巧みに、美しく、猥雑に表現していた音楽家達にはまった。サニーデイ・サービスTokyo No.1 Soulset椎名林檎、そして小沢健二。今日サニーデイの「サマーソルジャー」を聴いていたら、あの時の気持ちがまたしても蘇ってきた。そこで鳴らされる音楽、そして唄われる言葉達は、とても身近に感じられるのにここにはない世界から発せられている何かであるようにいつも思えてしかたがない。

僕が彼らの音楽に幾度となく涙してきたのは、近くにあるはずなのにここにはないものへの憧憬とそこには決して届かないという哀しみが同時に襲ってくるからなのだと思う。

僕が老いぼれて静かにこの世に別れを告げるとき、その葬送曲はSoulsetの「ヤード」にして欲しい。あのファンファーレが鳴り響くとき、僕はとうとうここからあの場所へと辿り着けるのだろう。それが別に幸福だろうと夢想しているのでなく、「善悪の彼岸」で上に挙げたような音楽家達の音が鳴り響いたとき、僕はきっと何かを掴んだ気がして微笑むのだろうと思うだけだ。それはもう「この世」ではないのだろうけど。

と、なんだか感傷的な文章を久々に書いてしまったが、なんか書きたかっただけなので特に深い意味はございません。僕は元気でございます。