世界とつながること

今日も走る。ひたすら走る。40分間を無心に駆け抜ける。仕事は方向性が見えずじりじりした日が続くのだが、毎日朝きちんと起きて、朝ご飯を食べて、歯を磨き、通勤電車で英字新聞を読み、淡々と仕事して、日々の家計簿をつけて、家に帰り夜ご飯を食べて、しばし休息して、走り出して、ブログを書いて、歯を磨いて、寝る。こういう習慣化された生活もいいものではないか。

ところで今の会社は席がフリースペースだし、音楽聴きながら仕事しても誰も文句を言わない。ということで、気分が乗らないときは音楽に耳を傾ける。今日はこの前借りてきたこの鬼束ちひろのベストアルバムを聴く(それにしても僕は本当にインディー・ロック好きだったんだろうか。J-Popばっか聴いているぞ、最近。これは深遠なテーマが潜んでいそうではないか、いやない)

the ultimate collection

the ultimate collection

彼女のベストを聴いて改めて思う。鬼束ちひろの音楽は今の日本における「私」にとっての「ゴスペル」であると。

「現代人」という一般的なくくりでなく「私」。今の世の中で生きる一人一人に福音を与える音楽。そしてその単位は「我々」ではなく、あくまで「私」という一人称でしかない。

苦悩の質について現在と過去を比べたり、先進国と途上国を比べたりすることは、客観的な分析の場では意味を持つ。この日本でいくら苦悩したって、アフリカやイラクチェチェンチベットや、現代の困難を全て背負ったような国に住む人々に比べたら、そんなのたいしたことないじゃないかと。

ただ、そういった比較論は個人の苦悩の前では力を持たない。他人や他の国のことじゃない、いま、ここにいる「私」は苦しいのだ。そういうはっきりとした声にすらならない、軋むような苦悩を鬼束ちひろは全身を使って歌い上げている。まるで人々の苦悩を全て引き受けて、それを吐き出すように。

だから、彼女の歌を聴くことは僕にとって大きな浄化作用を持つ。僕は彼女に自分の苦しみを託し、彼女が渾身の力を込めて歌い上げる曲達は託された僕の苦しみを中和していく。

現代の日本で歌われる「ゴスペル」は、教会で聖歌隊が先導し皆で歌い上げる姿からは遠く離れた形を取らざるを得ない。鬼束ちひろは、たった一人で何万、何十万という人々の、しかも個々が持つ苦悩を引き受け、それを歌という形で表現しているように見えてしまう。

だから、久々に音楽界に復帰した鬼束ちひろがツアーを全てキャンセルしたというニュースを読んで、僕はなんだか悲しかった。もちろん彼女自身が抱え込んでいる問題もあるだろう。ただ、彼女は多くの人の苦悩を昇華させる歌を作れる/歌える能力をもってしまったがゆえに、途方もない苦悩を引き受けてしまっているような気がする。

僕らはこの苦悩とやらを自分だけで引き受けて、それを解消することはできないのだろうか。何かにそれを託すのでなく。もちろん、家族や恋人、友人、そういった大切な人とのコミュニケーションで解消される苦悩はあるのだが。世の中に不気味に広がるこの苦悩とやらが、誰を苦しめることもなく解消される回路はないのだろうかと思ったりする。

あのCoccoが世界となんとかうまくつながる回路を見つけられたのだから、鬼束ちひろにもそういった日が来ればいいなと思ったりする。