(いまさらながら)動物化するポストモダン 東浩紀

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

大学時代の最後の年一番興奮した本が東浩紀の「存在論的、郵便的」だった。デリダの思想について書かれた本で、当然細部は理解したとは言えないのだけれど、赤線引いて高揚しながら読んだ。まさにパフォーマティブ哲学書で、僕の思い出の一冊だ。

なのに、なぜかこの「動物化するポストモダン」は読もうと思いながら読んでこなかった。この本って2001年出版なんだね、驚き。なぜ読まなかったのかというと、彼はWebサイトその他で同様の議論をしていてそれを読んでいたのがまず一つ。ただもっと大きいのは、サラリーマンになると、こうした「ポストモダンは?」という問いかけになんだかリアリティを感じなくなってしまうのだな。日々のビジネスからは遠いお話のような気がして、なんというか敬して遠ざける感じになっていた。

で、半分ほど読んだ感想だけど。オタク文化を切り口にポストモダン状況の変容を整理するその手さばきはやはり見事。これは、オタク文化に限らず、言うまでもなくテクノなどのダンスミュージックを例証としても議論が成り立つだろう。そもそも本書でも何度も「リミックス」や「サンプリング」という言葉が使われている。

大きな物語」や大文字の「作者」をベースとしたロックは、90年代前半かろうじてイノベーションを起こしていく力を持っていたけど、それ以降は英米とも失速気味なのは残念ながら事実だろう(ロッキングオンが選ぶ06年度トップのアルバムは、レッチリだ)

一方で、同じ90年代にダンスミュージック界隈では、まさに東言うところの「データベース消費」が徹底的に行われ、しかもそれが新しい音達を次から次と生み出していった。ここでは、ロックが持っていた大文字の「作者」はいない。石野卓球野田努が「テクノボン」でこのことを熱く語っていたのを思い出す。

と僕が稚拙なまとめをするまでもなく、テクノをはじめとしてポップミュージックの現状について、非常に精緻な議論を展開している増田さんの本を読み返そう、とおもったら実家にあるよ、、とほほ。