保坂和志「季節の記憶」を読み進めつつ

前半部分は、面白いなあと思って読んでいたのだけれど、徐々に読むことが辛くなってきた。特に主人公が、人間の自由意志に対する強い信頼を前提に話をしていてやや鼻白む。


ある日、主人公の息子が友達の女の子から字を知らないことを馬鹿にされて帰ってくる。主人公は、息子を幼稚園にやっておらず、息子も字を知らない。そこには、書き言葉としての言語を覚えることで、子供が持つ自由な発想が失われるのではという主人公の懸念が背景にある。


確かに、子供の頃の発想は、まだ整然としておらず混乱しており、それが大人には出せない独特の表現となり面白いというところはある。でも、こうした考えって今更という感じがする。「進化しすぎた脳」で触れられていたのは、言語であっても完全に人の自由意志によるものでなく、常識的に考えられているほど人間の思考は自由でない、という点。人間だけは自由にものを考えられる、というのが一般の認識だけれど、そうではなくて人間の思考も不自由なんだ、という考えのほうが新鮮だし、そこを巡る議論の方が刺激的だと思う。


と、けちをつけたが、勿論この本は小説なのであってそこで行われる議論がどうこう、というのはあまり良い読み方ではないのかもしれない。けれど、保坂和志の小説の場合、前にも書いたが、作家自身がその方法論や目指す方向性を自身のHPやインタビューで語っており、どうしても作品の裏側に彼の言いたい事がちらついてしまう。物語性を意図的に排除した作品なだけに、どうしてもその点が気になるのだった。