最終課題

最近ブログ復活気味だし、検索で一番多く引っかかるロッキングオン就活体験談。最終選考のとこはまだ書いてなかった。今日は疲れているので、まずは当日持っていた最終課題を恥ずかしながら掲載。青いねーおれ。ちなみにこの課題は「現在、世界の中で最大のニヒリズムは何か。また、それはどう乗り越えられるべきか」というタイトルで1200字以内の文章を書いてこい、というもの。

恥ずかしいくらい稚拙な文章だけど、今思うと自分が文章を書くことが好きだ、と心の底から自覚したのはこの一連の選考の時だった。あれから6年が過ぎて、30を過ぎて、僕はまた文章を書き始めている。

「現在、世界の中で最大のニヒリズムは何か。また、それはどう乗り越えられるべきか」
現在世界で最大のニヒリズムは、同一の神話化した物語が延々と繰り返され、私達がそれを無批判に受け入れつづける事にある。私は本論で、ポップミュージック、特にロックの中に見られる、事象の神話化、そこへの失望、ニヒリズム、という構造を批判し、そこからの離脱の可能性を探ろうと思う。
ロックにおいてよく語られるのは、演奏者の内面が表出された音楽と深い関わりをもち、その連関がリアリティに結びつく、といった言説だ。ここで、個人的な経験を語ろう。ニルヴァーナの音楽は、カートコバーンの荒廃した内面が、強い表現衝動に転化し、それが軋むノイズと、違和感をぶちまけた歌詞として吐き出されたものだと評価されていた。私自身もカートの叩き付けた世界への違和感を、自分のそれと結びつけ、自己同一化を図る事で彼らの音に夢中になった。
 その矢先、カートは自殺した。私は、前世代がイアン・カーティスに託したような神話が再び誕生した事をどこかで喜んでいたのかも知れない。そのおぞましさを知り、自らの希望やら絶望を安易にロックに託す価値観に絶望し、私はニヒリズムに陥った。
 カートの死を経て、パールジャムスマパン、ベックなどは「ニルヴァーナ以後」として語られた。しかし、そもそも「ニルヴァーナ以後」と問うこと自体ロック神話―ニヒリズムへの道程―の再生産ではないのか。確かに、エディ・ヴェダーが歩んだ歴史は、カートの死後どう苦悩を歌うのか、というテーマに彩られていたかもしれない。けれど、現在スマパンが解散し、またしてもロックの敗北が謳われるなかで、私達は歌い手の内面を探り、それがどこにも行き着かないことを再確認しつづけるのだろうか。それは、同じ物語の繰り返しに過ぎないにもかかわらず。
 「『ロックにレボリューションは不可能である』それが日本のロックの見識である。だから無害でOKなのだ」(近田春夫 『考えるヒット』)
近田春夫ジュディマリの「くじら12号」を論じた中の言葉だ。彼は、ニヒリストなのではない。ただロックの神話化を疑い、「歌い手」の内面でなく、「うた」の内面を探っているだけなのだ。つまり、歌自体の構造や歌詞の響きに彼の批評は働く。そこには、わかりやすい物語はない。しかし、彼自身のリスナーとしての自前の言葉だけが、しっかりとある。私は、ここにニヒリズムを解体する一つの可能性を感じる。
 つまり、私達に必要なのは、ロックを既成の文脈、物語の中で受け取る事を徹底的に拒否する事なのだ。フジロックがやたらとステージを増やし、ジャンル横断的なアーティストを中心に招聘するのには、可能性があるのだ。ジャンル内の枠組み、定まった聞き方等を拒否し、多様な音をそのまま受け取る事で、ロック村に自閉しない感覚を得ることが必要とされている。ヒップホップやテクノは、その可能性を示してくれたのではないか。神話の解体は、もっと推し進められなければならない。