「意味がなければスイングはない」 村上春樹

意味がなければスイングはない

意味がなければスイングはない

ということで、久々に本についても。行きの飛行機の中で完読。音楽について書く、というのは(今更言うでも無く)難しい。多くの人の書く音楽論、つまり巷の雑誌やらブログやら何やらで書かれるものは、その多くが「感想文」に過ぎない。感想文だから何が悪い、というのは当然の反応だけど、音楽についてはその感想の幅がいまいち狭い。メロディがよい、歌詞がよい、彼氏に振られた時慰めてくれた、仕事で上手くいかないときの応援歌だ、木村カエラはかわいい、とかそんな感じ。例に漏れずこの僕も音楽について書くならば、ロッキングオン文体を採用せぜるを得ない。パブロフの犬のようなものだ。「ああこの音楽は世界を変えてくれます、いや僕が変わり君が変わりその変化が孤独な僕達を連帯させてくれるのだ、ありがとう、ああありがとう」。

と前振りが長いけれど、村上春樹。取り上げられているミュージシャンは8組(人)。ジャズではおなじみスタン・ゲッツ、クラシックはシューベルト、ロックはブライアン・ウィルソン、日本から唯一スガシカオ、などがメジャーどころ。

この本のいいところは、村上自身の個人的な(それも深い、愛情のこもった)音楽体験をベースに、各ミュージシャンの置かれた時代や個人的背景をきっちりと書き出した上で、カラフルな比喩を通じてそれぞれの音楽をきちんと文章に置き換えている点。好きな音楽を、時代背景も交えながら冷静に書く、これはなんとか可能だろう。好きな音楽を、個人的な表現(すごい、感動、など)を用いて書く、これは多くの人が出来る。ただ、この両者を、特に音楽が人を感動させる部分(メロディ、歌詞、などなど)について、仮にその音楽を知らなくてもその音が鳴り出すように書ける人はそうそういない。

ということで、この村上本は、いつも彼が小説内で描く音楽や料理に激しく惹かれてしまうのと同様に、取り上げられた音楽を聴いてみたいと思わせる。あとがきで彼が書いているように、音楽を聴くことの一つの大きな楽しみは、ある個人的な体験、感動をきっかけとして、他の人達とその体験を共有できる点にある。個人的な話だが、高校時代に、親友と好きな音楽についてとことん語り合ったことを思い出す。必ずしも音楽的嗜好がばっちりあったわけではないけれど、二人が共通に好む幾つかのアーティスト(ニルヴァーナであったり、ジェリーフィッシュであったり、裕木奈江であったり)について、シニカルかつ熱情的に語ったあの頃の幸福を思うのだった。

つけたしで思ったのだけれど、今度は村上さんに料理について何か書いて欲しい。想像すると腹が減ってくる。

最後に、いつも出てくる、否応なく刻印された村上節で、好きでない人もいるかもしれませんが引用を。こういう感性を、僕は、いつまでも愛し続けますよ、誰に言われても。


「そしてそのような個人的体験は、それなりに貴重な温かい記憶となって、僕の心の中に残っている。あなたの心の中にも、それに類したものは少なからずあるはずだ。僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、太陽系第三惑星上における我々の人生はおそらく、耐え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。だからこそおそらく僕らは恋をするのだし、ときとして、まるで恋をするように音楽を聴くのだ。」         
P77 シューベルト「ピアノ・ソナタ第十七番二長調」D850より