異国での対話

上海から戻って2週間経った。海外に長期滞在する、というのは否が応でも自己との対話が増える。自分を色々な角度から、異国の地での経験に影響されながら、たびたび見つめなおす。そうやって人は海外体験を消化したり、また自分のバランスを取るのだと思う。

で、そういう自己見つめなおし作業が常態化してるから、日本に帰国すると心的感覚と現実がちょっとずれる。慣れ親しんだ日本での生活なのだから、その意味を捉え直したり自分で咀嚼する必要はないのだけれど、心的プロセス的には一段深く捉えようとしてしまう。

大学時代アメリカに一年行った時もそうだった。特に深く影響を受けたと思えた韓国人女性が敬虔なクリスチャンだったので、今より一層内省するのが普通になっていたから、日本の日常に戻るのは結構苦労した。

その頃に比べれば今は仕事もあるし、家族も傍にいる。ということで、少し時間がかかっても仕事が忙しくなってくれば日常が戻ってくるだろうと思う。けれども、上海での自己対話は体の奥の方に澱のように残る。それらは、折りにふれ、もしくは唐突に表面に浮き上がり、その意味を知る時が来るのだろう。

NPO/NGOとビジネス

旅行最終日は予定通り、NPO法人かものはしプロジェクトの作業所を訪問した。100人規模の女性が雇用されハンディクラフトを制作、カンボジア国内、海外で販売している。http://www.kamonohashi-project.net/activity/#activity01

シングルマザーや貧困層の女性雇用が促進され意義深いとは思う。ただ、NPO/NGOの枠組みでこうした「ビジネス」を展開することの難しさは感じた。ガイドしてくれたカンボジア人スタッフに聞いたのだが、例えば、海外から大きな発注があっても事業拡大が主ではないので断る、と。

東アジアの発展の歴史は、民間による投資が事業拡大を促し、雇用が生まれ、被雇用者の消費が拡大し、そしてそれがまた事業拡大を促す、という循環だったように思う。経済発展の肝は海外/国内の事業投資。カンボジアでいえば、特に人件費が高騰している中国、そしてベトナムから製造業の生産拠点投資を奪っていくかにあると思う。

そういった環境で、NPOが「ビジネス」を手がける時、長期的な目的をどこに位置づけるべきなのか、という課題にどうしてもぶつかる。目的が、貧困層の雇用、なのであれば、事業投資がより大規模でなされる方がより多くの人を救えるし、賃金も大きい。

勿論カンボジアは長期の内戦という事情もあったし、小さな規模であっても雇用を作る、ということは素晴らしいと思う。ただ、ようやく経済発展の軌道に乗りかけているカンボジアであれば、例えば民間の事業会社に対して農村など「現場」のリアルな情報を提供して彼等のマーケティングを助ける、というような組み方の方が有望なのではと感じた。

誰かの笑顔のためにはたらく

ここ数年の毀誉褒貶を経て痛感するのは、仕事のパフォーマンスって「誰かに喜んでもらうために」仕事するとき一番あがるということ。その「誰か」って顧客でも社内の人でも構わなくて、とにかくその人に喜んでもらうために必死に考えて工夫して、怒られたり突っ込まれたりしてもあきらめずに頑張り、最終的に形のあるものができてその人から「ありがとう」と言われた時、結果的に仕事の質はとても高い。

よく仕事がつまらない、とかいう話を聞くけれど、僕がそう思うときって大抵独りよがりになってたりして、仕事が誰のためにあるかを見失っているときだ。上に書いたみたいに誰かに喜んで欲しいと思って仕事するとき、いつもその人ならどう考えるだろうか、どうしたら嬉しいだろうか、と考えててワクワクするし時間もあっという間にすぎる。

こう書くとなんだか青臭いけれど、人間は社会性を意識する時パフォーマンスが最大化する、ってのは掘りがいのあるテーマだと思う。個ってそれ自体では規定できなくて、他者との関係性の中で形作られ定義される、っていう構造主義の考え方もそうだし、今ならソーシャルメディアの興隆とつなげてもいい。あと、Steve Jobsがインタビューで「コンシューマービジネスは反応がダイレクトなんだ、例えば田舎に住むおじさんからiPad最高だよってメールが来る、そういうところを愛してるんだ」って語っていたのをよく覚えている。

「お客様志向」ってのは古臭い言葉に聞こえるけれど、その本当に意味するところはとても射程が広いし、それは実務を通じてしか学べないのだなあと痛感しているところ。

沢木耕太郎の講演に行った!

月曜日に沢木耕太郎の講演会に行ってきた。登場して「こんばんは、沢木耕太郎です」って話が始まった時感動。エピソード満載だったのだけれど、対象との距離のとり方がつかず離れず絶妙で文体と同じなのが面白かった。アマゾンで、搭乗したセスナが墜落した話を淡々と「あーおちてくなー」みたいなトーンで話すのとかなかなかできるもんじゃないなと。

深夜特急」みたいなナルシシズムに陥っちゃいそうな著作も、どこか冷めた目でバランスを取っているところが僕は好きなのだけれど、今日の語り口の端々にそういったバランス感覚が宿っていてとても心地よかった。

全体のテーマは「ソロとパーティ〜ひとりで“行く”ということ〜」。単独登頂で著名な登山家、山野井泰史とのエピソードを通じて、ソロ、つまり単独で生きることの大事さや強さを語っていた。そして、パーティとの対比で、ソロ、つまり一人で生きられる人の集まりとしてのパーティこそ求められるのでは、とまとめていた。これは全く同意。自分の目指すところでもあるのでなんだか勇気づけられた。ただ、パーティの例でリストラされたサラリーマンとか出てきたり、最後のまとめ部分はやや一般論に流れたかなーという気もしたけれど。。

ということで、彼の魅力はやはり細部を描き出す視点だったり語り口なんだなと再認識。とても60代に見えない若々しい容姿と、すごく聞き心地の良い声質も合わせて、大満足の講演だった。

一つの終わり

R.E.M.が解散を発表した。僕にとっては一番大事なバンドのひとつだったので驚いた。ただ、衝撃的とか悲しい、というのではなくて、個人的にもひとつの時代が終わっていくのだなという感覚。僕にとってロックは常に思春期の音楽で、R.E.M.の持つ文学性も自分の思春期的な部分を刺激してくれた。

で、僕も既に35歳。10〜20代で抱え込んでいた様々な葛藤は年と共に、また個人的な努力と共にだいぶ薄らいだ。まだその痕跡が残っているのを時折感じるのだけれど、少なくとも「思春期」的であることに価値を見出すところからは随分離れた。というわけでインディーロックを聴いてもなんだか懐メロ的に感じてしまい、最近はあまり聴くこともない。

その中でR.E.M.のAutomatic For The Peopleだけは、思春期的な甘さが排除されていながら、人生を語る普遍的なトーンに満ちており、時折聞いては心やすらぐ気持ちになっていた。彼等の解散はひとつの時代の終わり、というのを感じさせるけれど、月並みながら彼等の残した音楽はこれからの人生のそれぞれのタイミングで重要な意味をもつのだろうと思う。

上海探訪

上海に来て約1ヶ月。生活の立ち上げに案外手間がかかり、そして、仕事がひどく忙しい。少しプレッシャーを自分にかけすぎているかもしれないが、一応1年間という限られた期間での仕事であるので、どうしても成果にはこだわってしまう。まあこの辺はバランスかも。

とはいえ仕事だけの生活も味気ない。では何をしよう。色々考えたけど、せっかくだから上海の近代史をテーマに色々と街を巡ることを考えたら一番わくわくした。当然だが中国の近現代史は日本とも分かち難く結びついている。住んでるところも租界エリアに近い。ということで来週からは時間の許す限りそんな探訪をしたい。まずは共産党の第一回全人代が行われた「中国共産党一大会址」、韓国併合後に李承晩が臨時政府を樹立した旧跡などを辿ろう!

原則を貫くこと

グローバル企業では原則を貫くことが基本的な価値観になっている。上海に来て約3週間が経ったがこのことを痛感。本社の指示が曖昧な時、日本は不満を漏らす(でもそれは本社に言わない)、もしくはアクションしない。今いる上海では指示通りにきちんとこなす。それが「原則」。

「原則」を貫くことで短期的には業績に悪い影響を与える側面もあるのだけれど、そこは一旦横に置く。まずは原則通りにアクションすることが最優先。今のマネージャーは韓国人なんだけれど、その徹底ぶりは見事。どうしても日本的ビジネスの進め方がまだ自然な私にとっては、彼と意見が合わずぶつかったりしたんだけど、結果的には彼のやり方が大きくアクションを動かす上では効率が良さそう。

せっかく上海に来たので、自分の持つビジネス感覚とグローバル企業で普通とされるそれとの違和感を見つめて、いい方向に昇華させたいと感じる。